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動物関連ニュース

動物たちの活動のために動物に関する記事を参考のために集めています

どんぐりさん・すぴかさん
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ドキュメンタリー映画「犬と猫と人間と」 飯田基晴監督に聞く
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    ■足長おばあちゃんに頼まれて

     「あなたに映画を撮ってほしいの。製作費はこちらで用意します」

     デビュー作を見に来た観客から、突然こんな申し出を受けた。初対面のおばあちゃん。「捨て猫を長年世話してきたけれど、もう限界。動物愛護について、誰でもわかる映画を作ってほしい」と言う。

     夢のような話だった。デビュー作「あしがらさん」はホームレスのドキュメンタリーだし、自身も特に動物好きではない。だがおばあちゃんは真剣だった。愛護団体に寄付するより映画で広く伝えたい、家族も了解済みだという。「でも、なぜ僕に?」。戸惑う監督にぴしゃり、「私は人を見る目はある方なのよ」。

     手探りの取材が始まった。関連書籍を読みあさり、施設や愛護団体に通った。毎年30万頭以上の犬猫が殺処分される一方で、動物とのふれあいを売り物にするビジネスは急成長。動物に癒やしを求め、いらなくなったら放棄する。動物の問題は人間社会の問題だと気がついた。

     「保護施設の関係者が、すぐそばの老犬に目もくれず、若い犬の譲渡先を相談する光景に『あしがらさん』のホームレスの姿が重なった。救いたくても救えない。だから目を合わせられない。前作と共通する命の問題がここにもあると気づいた」

     130時間の記録を、悩みに悩んで削った118分の「犬と猫と人間と」は、来月10日から東京・渋谷のユーロスペースで公開。おばあちゃんとの出会いから5年半、約束を果たせる日がやっと来る。(深津純子)

    朝日新聞 2009年9月14日
    http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200909140209.html

    by jl-jl
    | | 10:41 | - | trackbacks(0) | - | - |
    ものがたり’09夏:子ヒョウのはく製修復 兵士癒やした「戦場の天使」
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       第二次世界大戦中の中国で兵士たちに愛された子ヒョウ「ハチ」。終戦前、「猛獣は危険」と毒殺されはく製にされたが、悲しんだ兵士が戦後、故郷の高知に連れ帰った。66年を経て、はく製は傷んでいたが、俳優の浜畑賢吉さん(66)らが募金を呼び掛けこのほど修復。よみがえったハチは25日、高知市子ども科学図書館で披露される。

       ハチは1941年、中国・湖北省の山中で、生後まもなく母親とはぐれていたところを、旧陸軍歩兵第8中隊の故・成岡正久さんたちに保護された。部隊名にちなみ「ハチ」と名付けられ、兵士と一緒に暮らし始めた。

       駐屯地の入り口で一晩中歩哨兵に寄り添う「見張り番」をしたり、マラリアで苦しむ兵士の汗をなめながら「看病」するなど、死の恐怖と向き合う兵士たちの心の支えになった。

       部隊の転戦に伴い、ハチは東京の上野動物園に引き取られたが、43年8月19日、「動物園が破壊されて逃げ出しては危険」として毒殺された。戦後、成岡さんがはく製を譲り受け、高知市へ運んだ。晩年、自宅近くの子ども科学図書館に寄贈したが、その存在は次第に忘れ去られた。

       転機は03年。野生動物の保護に取り組む浜畑さんがハチのエピソードをつづった物語「戦場の天使」を出版。初めて会ったハチの傷みのひどさに落胆し、04年夏から修復の募金活動を始めた。資金が集まらず一時は暗礁に乗り上げたが、ようやく今年5月から修復作業を進めてきた。

       浜畑さんは「今後はハチを題材にしたアニメや演劇などを作り、その存在を一人でも多くの人に知らせていきたい」と話している。

      毎日新聞 2009年8月18日 東京朝刊
      http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090818ddm041070033000c.html

      by jl-jl
      | | 11:08 | - | trackbacks(0) | - | - |
      戦争と動物/5止 ゾウ列車は夢を乗せて
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         ◇2頭守られた名古屋へ全国から 奮闘の経緯、絵本に
         1943年8月、東京都は上野動物園にライオンやニシキヘビなど猛獣の処分を命じた。東京でも空襲が始まり、おりが壊れて逃げ出すのを防ぐためとされたが「国民に戦時の自覚を持たせる目的もあったのでは」という園関係者もいる。

         飼育係として50年以上動物たちを見守り続けた高橋峯吉さんは生前、上司から殺処分を告げられた時のことを著書「動物たちと五十年」でこうつづっている。

         <みんなうつむいていました。私の頭の中には40年にわたって飼育してきた動物たちの姿態が明滅していた。わたしは立っていることも耐え難くなり、そっとかたわらのいすに手をかけて、体を支えていた>

         16歳だった四男の義博さん(82)が当時の父の様子を話してくれた。「疲れた顔をしていました。仕事の話はあまりしない人でしたが、ゾウに毒入りのエサを与えていることを母に話しているのを聞いたことがあります。一人で抱えきれなかったのでしょうか」



         戦後30年が過ぎた75年。愛知県の小学校教諭だった小出隆司さん(71)は、上野動物園でゾウが餓死させられたことを描いた絵本「かわいそうなぞう」を1年生に読み聞かせた。教室はすすり泣く声でいっぱいになった。

         どうにか慰めようと、以前読んだパンフレットの一文を紹介した。「名古屋の東山動物園では2頭のゾウが守り抜かれました」。みんなの表情が明るくなった。「もっと教えて」とせがまれたが、それ以上知らなかった。追及は1カ月たってもやまず、一人の女の子が言った。「先生、うそはいけないってお母さんがいってた」

         図書館を回っても資料は見つからない。しばらくして当時の園長、北王(きたおう)英一さん(故人)の消息が分かった。「子どもたちとの約束が果たせる」と、心躍らせ自宅を訪ねた。

         通された和室で、北王さんは天井を見上げたまま身じろぎもしない。お茶をいれてくれた北王さんの妻が言葉を継いだ。「最近あなた、うなされなくなりましたね」

         北王さんが絞り出すように小出さんに言った。「あなたは私のつらい胸中をひっかきまわされるのですね」

         数日後「お話ししましょう」と電話があった。それから毎週末、小出さんは北王さんの元に通った。忘れたい痛みを掘り起こす作業は半年間に及んだ。

         ライオンやトラが銃や毒で次々殺され、4頭いたゾウはエサが足りず2頭が死んだ。無力さにうちひしがれていた北王さんを支えたのは「日本はもう1年は持たない。一頭でも多くの動物を守れ」という友人技師の言葉だった。「1年なら何とかなる」。軍や警察に何度も足を運び、ゾウを殺す命令を出さないよう訴えた。農家を回ってはクズ野菜をもらい、園内でも野菜を作り、食べさせた。

         北王さんが語り始めた8年後、もう一人のゾウの守り主が明らかになった。園に駐留する軍司令部で獣医をしていた三井高孟(たかおさ)さん(故人)だ。軍馬のエサをこっそりゾウ舎の近くまで運ばせ、飼育員が盗んでいくのを黙認していた。



         多くが貧しかった終戦直後、一人の少年が上野動物園に送った手紙が子どもたちの心に灯をともした。

         <妹はちいさいとき見たライオンやぞうのことをわすれています。絵本にかいてあるぞうをみて、うしより大きいかなどとおかしな質問をします>

         書いたのは神奈川県横須賀市に住んでいた近藤晃一君。妹のためにもゾウを買ってほしいと、自分のお小遣いも添えていた。手紙は49年3月、毎日小学生新聞に掲載された。

         この記事をきっかけに、連合国軍総司令部(GHQ)がすすめる民主主義教育の一環として設けられた東京都台東区の子供議会が「名古屋からゾウを借りよう」と決議。少年少女が名古屋まで直談判に行く。でもゾウは高齢で動かせない。そこで旧国鉄や名古屋市関係者らが奔走し、全国の子どもたちを乗せ名古屋へ向かう「ゾウ列車」を走らせた。

         「ゾウがどんな動物か、全く分からないまま夜行列車に乗り込んだんです」。当時小学4年生だった米谷(まいや)哲二さん(70)=千葉県松戸市=が振り返る。初めての長旅にみんな大興奮、列車から落ちてしまった子もいたという。

         そして朝。園に着くと、入り口近くまで2頭のゾウがノッシノッシと歩いてきた。「ウワァー」。想像以上の大きさに大歓声が上がった。「まだGHQの占領下で列車の運行も自由にはできなかったはず。子どもたちのために奮闘した大人がいたことを、語り継いでいきたい」と米谷さんは話す。



         小出さんは76年に絵本「ぞうれっしゃがやってきた」を自費出版した。最初のゾウ列車が走り今年で60年。本を基にした合唱劇も作られ、今も各地で上演されている。

         取材の最後で聞いた小出さんの言葉が深く心に残っている。「動物園に動物がいて、子どもたちと家族の笑顔がある。ごく普通のことが平和の象徴なのです」【木村葉子・42歳】=おわり

        毎日新聞 2009年8月14日 東京朝刊
        http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090814ddm013040143000c.html

        by jl-jl
        | | 10:56 | - | trackbacks(0) | - | - |
        戦争と動物/4 馬の出征、泣いた母
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           ◇農家支えた大切な家族 多くは殺処分、待てど帰らず
           桜の木の下で、馬にニンジンをやる母の手が震えていた。お母さんはなぜ泣いているの。まだ3歳で分からなかった。「食べさせてあげて」と母に言われ、リンゴ箱に乗ってニンジンをあげた。

           北海道新ひだか町に住む元学校教諭の春子さん(69)=仮名=は飼っていた馬を軍に差し出した日のことをはっきりと覚えている。1943年。開拓農家で、5頭ほど飼っていたうちの1頭だった。「栗毛(くりげ)でつやが良く、しっぽの黒い毛が揺れると、きらきら輝いて星が降るようでした」

           翌44年、父が出征した。終戦の年の秋に復員し、戦争とはどんなものかを悔しそうに話した。鹿児島で特攻機の整備をしていたが、見送りで涙を見せて上官に殴られたこと。「おまえの命は1銭5厘(召集令状のはがき代)。馬の方が高いんだ」と怒鳴られたこと。

           あの馬のことも教えてくれた。引き取りに来た役人が「きれいだから将校が乗るだろう」と言っていたと。でも、とうとう帰ってこなかった。

               *

           農業がまだ機械化されていなかった時代、農家にとって馬は大切な家族であり、働き手だった。戦争が始まると軍に徴発されて海を渡り、最前線へ送り込まれた。頭に日の丸の旗を結び、首や胴に「一死報国」「祈武運長久」と書いた布を巻きつけた馬たちを、みんな家族の出征のように「万歳」と声をかけながら見送った。

           その馬たちは戦後どうなったのか。知る人たちを訪ねるうちに、私(記者)は悲しい最期を知った。

           戦地からの復員が本格化し始めた45年10月。まだタイの地にいた久木田澄信さん(89)=埼玉県坂戸市=は左手に手綱、右手に銃を持ち、泣きながら馬の前に立っていた。

           降伏以降、部隊は首都バンコクに近いナコンナヨックで英軍の監視下に置かれた。英軍は乗馬用の優秀なものを除き、用のなくなった馬を殺すよう命じた。「Keep(生かせ)」「Destroy(殺せ)」。英兵の一言で、一頭一頭の運命が決まっていく。

           砲兵だった久木田さんにとって、大砲を運んでくれる馬は戦友だった。敵軍に橋を破壊されても部隊を先へ進められたのは、彼らのおかげだ。部隊の食料が尽きかけた時も、こっそりまんじゅうを与えた。ポケットに入れたままにしてじらすと、鼻をすりつけ子どものように甘えてきた。

           だが英軍は軍曹長だった久木田さんに最もつらい役を担わせ、頭数と同じ数だけの銃弾を手渡した。「苦しまず1発で死んでくれ」。それだけを考え、次々と引き金を引いた。馬たちはいななくこともなく、ざんごうの底に沈んだ。1日で処分した馬は部隊全体で約1400頭に上ったという。

           「苦楽を共にした物言わぬ戦友を、自分の手で処理したのです……。身の不運を嘆きました」。久木田さんは声を詰まらせながら言った。

               *

           18歳で出征した伊藤一雄さん(83)=北海道津別町=にも、馬とのつらい別れがある。沖縄戦で旧満州(現中国東北部)から連れてきた350頭の世話をした。米軍の猛攻撃が始まると、一緒にざんごうへ逃げた。馬も恐怖で震えているのを肌で感じた。

           44年暮れに沖縄から台湾の軍病馬廠(しょう)(獣医学校)への派遣を命じられ、そのまま終戦を迎えた。その後も日本から連れてきた馬を世話していたが、伝染病がまん延し、感染した馬を処分して台湾側に引き渡すことになった。

           「天国に行くんだよ」と1頭ずつ塩や砂糖をなめさせ、バケツで水を飲ませた。現地の人が馬の眉間(みけん)にハンマーを振り下ろす。大きな体が崩れ落ちた。「許してくれ!」。思わず叫び、血にまみれた馬の頭にしがみついた。

           たてがみをなでていて、硬いものに触れた。小さなお守りがくくり付けられていた。開けるとお札と一緒に<啓國号 五才祈武運長久>と、名前や年齢を書いた小さな板が出てきた。無事帰るようにと願い、飼い主たちが結んだものだった。

           北海道に戻った伊藤さんは生花店を始めた。戦友や遺族と沖縄を訪ねては兵士や馬たちの遺骨を収集したが、仲間も高齢化して昨年が最後になった。書きためてきた手記もパーキンソン病が悪化し、ままならなくなってきた。「戦争を思い出すのはつらい。でも忘れられるのは怖い」

           二度と古里の土を踏むことのなかった馬たち。軍馬は兵器に準ずるとされたため、記録は戦後すぐに焼却され、ほとんど残っていないという。【中西拓司・38歳】=つづく

           ◇「兵器」として数十万頭徴発
           <馬は兵器だ>。北海道本別町の歴史民俗資料館には、1936年ごろ当時の馬政局が作製したとみられるポスターが保管されている。長野県の農家から見つかった。瀬藤範子館長は「今見ると異様ですが、たった70年前の日本の様子がここに表れている」と話す。

           旧日本軍は北海道・東北地方や朝鮮半島などに「軍馬補充部」を設け、馬を農家から徴発していた。39年、政府は「愛馬の日」を制定し、軍馬の育成を国民に奨励。同年には馬の徴発体制を強化する法律も定め、戦争への道をひた走る。連合国の経済封鎖でガソリンなどが手に入りにくくなると、馬の機動力は一層重要視されていった。戦地に送り込まれた馬は数十万頭に上るとみられる。

          毎日新聞 2009年8月13日 東京朝刊
          http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090813ddm013040101000c.html

          by jl-jl
          | | 10:53 | - | trackbacks(0) | - | - |
          戦争と動物/3 伝書鳩は戦友だった
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             ◇激戦地飛ぶ“兵士”繁殖 「愛国少年にとって誇り」
             「ハトに命を助けられた」という男性がいる。山形県川西町、斎藤義実さん(90)の家は青々とした稲がどこまでも風に揺れる田んぼの中にあった。

             斎藤さんは21歳だった1940年に青森第5連隊に入り、中国・青島に渡った。治安が安定したと思われた地区で深夜、八路軍の奇襲に遭い、部隊長の馬や通信兵がやられた。拠点の後ろは凍りついた川で、逃げ場はない。旅団本部に援軍を要請するための通信機器も破壊され、残ったのは自決用の手りゅう弾9発だけ。

             「もうだめだ」と誰もが思ったところに、本部から先兵隊が到着した。伝書鳩(でんしょばと)の訓練にあたる鳩兵(きゅうへい)が2羽のハトの足に援軍を求める暗号を付け、山向こうの本部へ飛ばしていたのだ。

             斎藤さんは「今こうしてあるのは、ハトのおかげ」と言って、戦時中の資料を私(記者)に見せてくれた。銃を構えたセピア色の写真を、夏休みで遊びに来た9歳のひ孫が「これ、じっちゃん?」とのぞきこむ。

             「若い人たちには、戦争だけはもうしてくれるなと言いたい」。娘(60)が持ってきた軍の勲章に目を向けることはなかった。

               *

             平和の象徴とされるハトは帰巣本能が強いことから、機密情報の伝達手段として戦争に利用されてきた。銃撃されたハトも数知れない。激戦地の空を命がけで飛んだ小さな兵士。その繁殖にも子どもたちが深くかかわっていた。

             東京都豊島区に住む農学博士の正田陽一さん(82)は学習院中等科と高等科の5年間、伝書鳩部に在籍した。優秀な親ハトを掛け合わせ、生まれたひなを軍に供出するのが役目だった。当時、同校の生徒は体育会系の部に入らなければならなかった。体を動かすのが苦手で困り果てた陽一さんだが、伝書鳩部は例外的に体育会系とみなされていた。

             ハトを少しずつ遠くに放っては戻る時間を予想し、仲間と鳩舎の前で空を見上げ、帰りを待つ。駅にかごを持っていくと栃木や福島まで運んで放してくれた。夕暮れが迫っても戻らないと「タカにやられたか」とやきもきした。警備員から「鳩舎に猫が忍び込んだ」と連絡があり、真夜中に駆けつけたこともあった。

             育てたハトが戦場で犠牲になるのはつらくなかったのか。私が尋ねると、陽一さんは「自分も出征してお国のために死ぬつもりでしたから、ハトを飼うのは誇らしかった」と言った。それでも手放せなかったハトがいたという。「今も覚えています。1296号と1310号、1309号。吉川英治の三国志に夢中だったので、趙雲(ちょううん)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)と名付けていました」

             しかし、45年5月23日の空襲で、すべて無になった。陽一さんは母や弟と明治神宮の森に逃げ一命をとりとめたが、自宅は全焼。いとこや友達を失った。学校も被害に遭い、ハトの安否を確かめる間もなく「満蒙開拓団になる準備のため」と岩手県の山奥に動員された。

             訓練中に迎えた終戦の日。玉音放送は波打ち、よく聞き取れなかった。引率の教諭が「日本は降伏しました。今日は落ち着いて好きにすごすように」と呼びかけた。ずっと命令で動いてきた子どもたちは何をすればいいのか分からない。

             陽一さんは思い立った。大好きな昆虫採集に行こう。晴れた空の下、網を手に渓流を進んだ。積んである薪をたたくと、驚いた虫たちがたくさん出てきた。その中に、一番大好きなルリボシカミキリがいた。鮮やかな青い色だった。

             純白のハトが飛び交う靖国神社。犠牲になった伝書鳩たちの鎮魂祭に、陽一さんは毎年参加してきた。「愛国少年だった自分にとって、ハトは戦友でした。彼らにそんなつもりはなかったでしょうが」【田後真里・28歳】=つづく

            毎日新聞 2009年8月12日 東京朝刊
            http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090812ddm013040116000c.html

            by jl-jl
            | | 10:52 | - | trackbacks(0) | - | - |
            戦争と動物/2 軍用兎飼育「少国民の務め」
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               ◇手放す寂しさ書いた作文、「うれしい」と直され
               <飼はう殖やさう軍用兎(うさぎ) 兵隊さんの毛皮は少国民の手で作らう>

               本土への空襲が本格化し始めた1945年1月、少国民新聞(現・毎日小学生新聞)は子どもたちに軍用ウサギの飼育を奨励する記事を連載している。柔らかく軽い毛皮は航空兵の軍服や手袋に適していた。食糧増産に追われる農家に代わり、おとなしく世話しやすいウサギの飼育は学童らが担わされていった。

               私(記者)は毎日新聞にマイクロフィルムとして保管されている当時の新聞を読み、ある作文が気になった。兄の出征後にウサギを軍に売った少女の飼育記で、見出しは「兎さんの出征」。

               <「兎はどうでしたか。」と母に聞くと、「喜んでおくれ。全部軍隊に買はれたよ。」と言はれました。私は思はず「ああうれしい。」と叫びました>

               書いたのは「釧路郡共栄校初5年 残間サキ」とある。戦後の消息をたどると、北海道で健在だと分かった。

                  *

               7月、紫のラベンダーが彩る北海道富良野市でサキさんに会った。78歳。息子が営む書道教室を元小学校教師の夫と手伝っているという。当時の新聞のコピーを渡した。

               「ああ」。口元を押さえた手の間から小さな声が漏れた。しばらく押し黙った後で「はっきり思い出しました」と、目を上げて静かに語り始めた。

               板金工だった父はサキさんが4歳の時に病死し、後を継いだ長男俊雄さんが一家の大黒柱として働いていた。15も年下の妹サキさんをとてもかわいがってくれた。

               ウサギを飼い始めたのは俊雄さんだった。「お国のために役立つことをせねば、との思いからかもしれません」とサキさんは言う。兄を手伝いエサにする草を刈り、小屋に風を通し掃除した。白くて目が赤いメメちゃん。耳が長いのはミミちゃん。特別かわいいウサギには名前をつけ、野原に連れ出した。ふわふわした毛に顔をうずめると暖かい。「クローバーで首飾りを編んで首にかけてやると、首をくるりと回して食べてしまうんですよ」

               でも<「ああうれしい。」と叫びました>の一文には「書いた覚えがありません」と首を振った。

               軍服にたすきをかけ、俊雄さんが出征していった。その後でウサギたちもいなくなった。空っぽになった小屋の戸が、風に吹かれてバターン、バターンと鳴っていた。そんな情景を書いたはずだが「先生が直したのでしょう。寂しさや悲しさは作文に書いてはいけない時代でしたから」

               もう一つ、サキさんの記憶と異なることがあった。作文を書いたのは、少国民新聞に掲載される5年も前だったという。

               作文が直されたこと、新聞掲載が敗戦の年になったこと。理由を知る人はもう見つからなかった。私は考えた。空襲が激化し本土決戦が叫ばれる中で、命あるものはすべて戦わねばならないとの覚悟を、子どもたちに刻みつけるためだったのかもしれない。

                  *

               日清・日露戦争以降、国は「軍用兎」としてのウサギ飼育を推奨し、45年度には1000万匹の飼育を目指してすべての家庭でウサギを数匹ずつ飼うよう呼びかけた。45年1月の少国民新聞にはウサギで作った軍服を着た航空兵の写真とともに、こんな記述もある。

               <「憎い敵米兵をたたきのめすためなら、どんなことでもするぞ。」これは全国の少国民の今の気持ちでありませう。勝ち抜くために、皆さんのする仕事はたくさんあります。軍用兎の飼育も一つです>

               当時ウサギの繁殖を担った施設が今も残る。福島県南会津町の会津山村道場。37年、山村の指導者育成のために国が設置した。今は農村体験のできるキャンプ場になっている。

               道場を訪ねると、白ウサギの石像があった。軍用に品種改良され、種ウサギとして全国に広められた「常松号」。改良者の功績をたたえ、ウサギの霊を慰めるために建立されたという。

               敷地内では今も常松号の子孫が育っている。真っ白な子ウサギが柵の中で体を寄せ合い、夏休みの子どもたちが、摘んできた草を楽しそうに食べさせていた。【木村葉子・42歳】=つづく

               ◇子どもの新聞も戦争一色に
               1936年創刊の「大毎小学生新聞」が「少国民新聞」となったのは41年1月1日。4月から小学校が国民学校と改称されるのに先駆けての改題だった。立派な少国民を育てるため、紙面は戦時色一色になっていく。掲載された児童らの習字にも<一機一艦体当たり><勝ち抜く力>などの言葉が並ぶ。

               新聞発行が1社1紙となった45年4月以降休刊し、再刊したのは終戦後の11月1日だった。この日の紙面には<少国民新聞休刊前の数年間といふものは、皆さんにおしらせしなければならないことの中に、時の政府の指導でゆがめられたことが沢山ありました。今日からの少国民新聞にはさういふことはすつかりなくなつて、少国民として知らなければならないことは、なんでも正しく報道することができます>との一文が掲載された。

              毎日新聞 2009年8月11日 東京朝刊
              http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090811ddm013040120000c.html

              by jl-jl
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              戦争と動物/1 愛犬供出、「心が死んだ」
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                 犬、ウサギ、馬……。戦時中、家々で大切にしてきた動物が子どもたちの前から姿を消した。国に求められ、差し出す役割を担わされた子もいた。出征する家族との別れにくわえ、小さな友達まで奪われた悲しみ。終戦から64回目の夏、当時を知る人たちが若い記者に語ってくれた。動物を通して見えた戦争を伝えたい。

                 ◇兄出征の悲しみに追い打ち 撲殺役も少年「国のため」
                 ペット問題を担当する私(記者)の元に昨秋、一通の手紙が届いた。差出人は宇都宮市の渡辺礼子さん(81)。ペットブームの中で捨てられた動物が毎日殺処分されている記事を読み「やり切れない思いです」とあった。

                 つづられていたのは17歳だった戦争中、軍服の毛皮にするため愛犬「マル」を供出させられた悲しい記憶。「マルのような犬がいたことを忘れないで」

                 私は市営住宅で1人暮らしをする礼子さんに会いに行った。

                     *

                 戦時中、礼子さんは栃木県西方町の農家に暮らしていた。ある夕方、弟が友達に子犬をもらってきた。もこもこした真っ黒な毛。8人のきょうだいのうち、小さい弟や妹から順に抱っこした。やっと長女の礼子さんの番が来た。腕の中でしっぽを振り続けた。前に飼っていた犬の名をつけることで家族全員が一致した。

                 家にはマルと遊びたい子どもたちが集まってきた。食べるものも着るものもなく、重い空気がたちこめた村に笑顔が戻った。

                 礼子さんは国民学校(現在の小学校)を卒業後、畑仕事に出た。父は勤め、兄は学校に行くため、母と2人での麦作り。人手が足りず雑草に負けてしまい、供出する分しか収穫できない。「私もマルも、いつもおなかをすかせてた」。くたくたになってあぜ道を歩いた。マルが後をついてきて、どこかで拾ってきた干しイモやたくあんをポリポリと音を立てて食べていると、ほっとした。

                 一番の楽しみは三つ上の兄、郁さんとハーモニカを吹くことだった。普段はおとなしいマルが「ウオーン、ウオーン」と歌うように鳴き声を合わせるので、2人で声を上げて笑った。

                 その兄の出征が決まった。見送る途中で涙をこぼし、村の大人に「どの家もお国のために兵隊を出してる。名誉の戦死を遂げるんだ」としかられた。一人でハーモニカを吹いた。マルが一緒に鳴いてくれた。

                 だが間もなく役場から連絡が来た。「兵隊さんの毛皮にするので犬を供出せよ」。もう言葉も出なかった。

                 犬たちは学校の校庭に集められた。マルを連れていった近所のおじさんから「校庭の手前から足を踏ん張って歩こうとしなくて困った」と聞かされた。

                 話し終えた礼子さんがつぶやいた。「戦争で、私の心は一回死んだの。うれしいことも悲しいことも、感じないように決めたの。苦しまずにすむから」。戦後は准看護師として働き、戦場で心を病んだ人たちの世話もした。犬を飼うことも、誰かにマルの話をすることもなかったという。

                     *

                 集められた犬はどうなったのか。動物の供出に詳しい児童文学作家の井上こみちさんが、犬や猫を撲殺する仕事をしていた修さん(79)=仮名=のことを教えてくれた。北海道に住む修さんに取材を申し入れると「忘れたいし、妻や子にも秘密にしている」と悩みつつも「勝っても負けても戦争はだめ。それを伝えられるなら」と話してくれた。

                 1944年の冬休み。15歳だった修さんは友達に「いい仕事がある」と誘われた。家族5人、長屋での貧しい暮らし。「少しでもお金になるなら」と飛びついた。

                 指定された場所に集まり、初めて仕事の内容を聞かされた。仲間の一人は逃げ出した。修さんは「満州や空の上の兵隊さんはどんなにお寒いだろう。これもお国のためだ」と心に決めた。でも子ども心に「猫は化けて出る」と思うと怖くて眠れず、便所に一人で行けなかった。

                 いろんな町を泊まり歩き、集められた動物を仲間が押さえ、修さんが撲殺する。「毛皮に傷が付かぬよう、犬は丈夫な木の棒、猫には金づちを眉間(みけん)めがけて力いっぱい振り下ろせ」と教えられた。連れてくる飼い主たちの表情は暗い。みんな悲惨な光景を見て動揺し「殺さないで」と懇願する。泣きだす少女。「うちの犬だけは助けて」と、どぶろくをわいろに差し出す男の人。泊めてもらった農家の犬をこっそり見逃したこともあった。仕事は20日間ほど続いた。帰宅して、家族に何をしていたかは言えなかったという。

                 私が「かわいそうなことをしたという思いはありますか」と尋ねると、修さんの口調に怒気が混じった。「ないね」。自分に言い聞かせるように続けた。「仕方がなかった。そう思うほかないんだ」

                 修さんは犬や猫が捨てられていると、拾ってきてしまうという。4年前からは茶色い雑種を育てている。

                 「鼻をなでてやると、じいっとこっちを見るんだ。かしこいんだ」。顔を上げてくれたのは、この時が初めてだった。【田後真里・28歳】

                 ◇物資不足で食用、軍服の毛皮用に
                 「犬の現代史」(今川勲氏著、現代書館)によると、日中戦争開戦後の1940年、国会で「人間も食べるものがないのだから、軍用犬以外は殺して利用してはどうか」という犬猫不要論が巻き起こった。当時は「愛犬家の楽しみを奪ってよいものか」との慎重論も強く、退けられた。

                 だが戦争の長期化で44年12月、当時の軍需省は強制的な供出を決定。毛皮は飛行服、肉は食べるためだった。同月19日付少国民新聞(現在の毎日小学生新聞)は<犬君も撃滅(げきめつ)戦へ>という見出しで、犬の供出により空襲を受けた際に国民がかみつかれることも防げると書いている。<立派な忠犬にしてやりませう>と訴えた隣組回報も残っている。

                毎日新聞 2009年8月10日 東京朝刊
                http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090810ddm013040020000c.html

                by jl-jl
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                しっぽの気持ち:手術を受けさせる責任=渡辺眞子
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                   我が家の犬に不妊去勢手術(以下、手術)を受けさせる日の朝のこと。散歩の途中で、犬がふとこちらを見上げた。「楽しいよね」とでも言うように。手術という選択が犬にも、私たち家族にも正しいことだと頭で理解していても、胸がちくりと痛んだ。

                   手術をためらう飼い主が「不自然」「健康なのにかわいそう」と思う気持ちは、よく分かる。動物は本来ある姿が一番美しく、手術は確かに不自然だ。でも人に依存せずには生きられないペットは野生動物ではない。健康や生殖を管理して避けられるリスクを避けるのは、私たちの責任であるはずだ。

                   この手術は発情期に伴う多大なストレスを無くし、犬も猫も寿命が平均して2〜3年延びるというデータがある。生殖器系の病気の予防になり、特に雌犬は最初の発情前に手術を受けることで乳腺腫瘍(しゅよう)の発生率を0・5%に抑えられる(2回目以降だと26%に上昇)。家族と一緒に、より長く快適に健康に暮らせるのだ。

                   手術をすると太るというのは迷信。取り除いた臓器ひとつ分のカロリーが不必要となるため、術後はそれまでの食事量から15〜20%減らすのが適量だ。また雄猫は手術でテリトリー意識が弱まり、動き回らず寝ていることが多くなる。こうした生活パターンの変化も手術後に太る要因となる。肥満予防については事前に獣医師と相談し、指導を受けよう。

                   近年は皮膚疾患に苦しむ犬と猫が多く「手術が原因でホルモン性の皮膚病にかかる」とする意見を見かけることがある。けれど現在、これらの皮膚病の原因が手術に由来しているとは証明されていない。猫の下部尿路疾患、犬の尿失禁についても同様だ(「アメリカ動物診療記」西山ゆう子著より)。

                   アメリカでは行政、獣医師会、民間の動物福祉団体が先頭に立って手術を推進している。一般の動物病院では低料金で提供していて、その専門クリニックもある。手術を行う設備を整えた専用車による出張や期間限定のサービスを企画するなど、あらゆる方法で普及に努めている。ロサンゼルス市では08年から、生後4カ月以上のすべての犬と猫の手術を法律で義務化した。繁殖用など特別な場合を除いて、違反者には罰金刑が科せられる。(作家)

                  毎日新聞 2009年8月5日 東京朝刊
                  http://mainichi.jp/life/housing/news/20090805ddm013070157000c.html

                  by jl-jl
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                  狂犬病:予防接種わずか4割 侵入許せば流行も
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                     狂犬病予防法に基づき、すべての飼い犬に義務付けられている狂犬病の予防ワクチン接種率が実際には約4割にとどまることが、日本獣医師会などの調査で分かった。国内感染による狂犬病は50年以上発生していないが、年間約3000人が死亡する中国をはじめ、周辺のアジア各国は発生数が多い汚染地帯。専門家は「いつ日本に侵入してもおかしくない。このまま低い接種率が続けば、侵入後は国内での流行を阻止できない」と警告する。【江口一、永山悦子】

                     国内では1950年に狂犬病予防法が施行され、飼い犬の市町村への登録と年1回のワクチン接種が義務化された。国内で犬にかまれて発症した狂犬病患者は54年を最後に確認されていない。

                     半世紀以上、国内発生がないことが人々の危機意識を弱め、近年は登録率、ワクチン接種率とも低下。ペットフード協会の調査による国内の犬の飼育匹数(07年度)は推定1252万匹に上る。そのうち厚生労働省調査による市町村への登録匹数は約674万匹、ワクチンを接種した犬は約510万匹にとどまる。登録率は54%、接種率は41%の低さだ。

                     獣医師会の大森伸男専務理事は「マンションなどでの室内飼育が増え、感染の危険性がないと思い込んでいる飼い主が増えているのではないか」と話す。

                     世界的には発生が続き、毎年3万〜5万人が死亡。特にアジアでは中国やインド、東南アジア、韓国で発生。インドネシアのバリ島では昨年11月に初の感染犬が確認された後、島内に感染が拡大。在デンパサール総領事館によると、今年4月ごろまで狂犬病による死者や、犬にかまれて病院に駆け込む人が相次ぎ、多くの野良犬が殺処分されたという。

                     ◇ことば 狂犬病
                     狂犬病ウイルスの感染で発症する人と動物の人獣共通感染症。すべての哺乳(ほにゅう)類が感染する。人が犬にかまれて感染し発症した場合、興奮、まひなどの神経症状が出て、呼吸困難でほぼ全員が死ぬため、飼い犬へのワクチン接種が重要とされる。日本では70年にネパールへの旅行者1人が、06年にはフィリピンへの旅行者2人が帰国後に発症、死亡した。

                    毎日新聞 2009年7月25日
                    http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090725k0000m040146000c.html

                    by jl-jl
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                    (5)「宇宙から来た」ガガーリン
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                      コロリョフの一生
                      宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授 的川 泰宣(まとがわ やすのり)

                       ソ連が1957年10月4日に「スプートニクを軌道に投入」と発表し、さらに11月3日にその6倍の重さ(504kg)のスプートニク2号を犬のライカとともに軌道へ送った。ライカは宇宙で一定期間生きつづけられることを証明した後に死んだが、さすがにアメリカは危機感に火が付き、フォン・ブラウンのチームが急遽、エクスプローラーの打ち上げを行い、成功した。そしてアイゼンハワー大統領は、1915年以来の伝統を誇る非軍事の宇宙開発機関、NACA(アメリカ航空諮問委員会)を核としていくつかの組織を統合して、やはり非軍事の宇宙開発を強力に遂行するNASA(アメリカ航空字宙局)を1958年夏に設立し、人間を宇宙へ送る計画に着手した。

                       ただし、宇宙でのライカについては後日談がある。当初、「約1週間生きて安楽死した」と発表されたが、ソ連崩壊後、実は宇宙で生存したのは「数時間」だったことがわかった。生命維持装置をつけて宇宙に飛び立ったものの、ライカは地球をせいぜい3、4周しただけだったのだ。


                      ソ連が先陣切った有人宇宙飛行

                       1961年3月24日、無人のレッドストーン・ロケットが完璧な飛行を見せ、いよいよシェパード飛行士を送る番となった4月、アメリカは大きなショックに襲われた。ソ連が有人飛行の先陣を切って、一人の若者を宇宙へ送ったのである。

                       そのためのヴォストーク宇宙船の試作機が完成し、無人での打ち上げが開始されたのは1960年5月15日のことだった。しかし、この時は64周目に、地上に帰還するための逆推進ロケットに点火するコマンドが地上から送られたのだが、誤作動を起こし、宇宙船は地上に戻れなくなってしまった。また同じ年の7月28日に打ち上げられた別のヴォストークには、チャイカとリシーチカという2匹のイヌが乗っていたが、打ち上げロケット本体の爆発により死亡した。

                       その約20日後の8月19日、べールカとストレールカという2匹のイヌが、18回の地球周回を行った後、パラシュートで回収され、軌道から地球に生還した最初の生物となった。その後、一進一退を繰り返したイヌの宇宙飛行が、宇宙飛行士に与えた不安も大きなものだっただろうが、ソ連は、天才設計者セヴェーリンを中心として、緊急脱出のメカニズムとパラシュートによる軟着陸システムの技を磨き、ついに1961年4月、人間を軌道へ運ぶ時を迎えた。

                       4月5日、ガガーリン、チトフ、ネリューボフ、ニコラーエフ、ポポヴィッチの5人の飛行士がバイコヌールに到着した。歴史に長く記憶されるべき1週間の幕が切って落とされたのである。この日、コロリョフは初めて飛行士たちと対面した。5人の中からユーリ・ガガーリンが選ばれて「飛ぶ」ことを言い渡されたのは、4月8日のことだった。

                       運命の4月12日、人類最初の宇宙飛行への旅立ちが、目の前に迫っていた。その光景をもっとも雄弁に語ることができるのは、ガガーリン自身の報告書である。


                      人類が踏み出した美しい第一歩

                       ──「8時41分には、ヴァルヴの作動する音が聞こえ、かすかなノイズが聞こえ始めました。メインエンジンに点火した時にノイズは大きくなりました。決して鋭い音ではなかったのですが、耳が聞こえなくなりました。……続いてロケットがかすかに震えているような感じがしました。ロケットはスムーズに、しかも軽快に上昇していきました。振動はしていましたが、それほど大きくは揺れませんでした。緊急時の射出(座席ごとの脱出)に備えて準備を整えました。私は着座のままで、リフトオフ(発射)の過程を見守っていました。その時、セルゲーイ・パーヴロヴィッチの声が聞こえました……」

                       ガガーリン自身が「パイェーハリ」(出発)と叫んだその瞬間の模様は、後に長年にわたってソ連のメディアが引用する決まり文句となった。ついにガガーリンは歴史的な旅に出たのである。地球を1周する間の貴重な記録に続いて、地球帰還の模様を、ヴォルガ河畔の町サラトフに降下したガガーリンは次のように綴っている。

                       ──「私は降下しながら、自分の右側に見える段丘の上にある守備隊駐屯地を識別することができました。道路の右手には、大勢の人びとや機械類が見えました。道路はエンゲルスに通じているはずです。そして峡谷を流れる小川を発見しましたが、そこには子牛の世話をする数人の女性がいました。どうやら私は、その峡谷に向かって落下しているようでしたが、どうすることもできません。皆が私の可隣なオレンジ色のキャノピー(パラシュートの傘)を見ているように思えました。やがて、耕された畑地に着地しつつあることがわかってきました。自分の足で大地を踏みました。着地は非常にソフトでした。私は自分が立っていることすら実感できませんでした。後方のパラシュートが私に覆い被さり、前方のパラシュートが私の目の前に落ちてきました。私は生きていました。しかも無事でした。小山の上に登ったとき、一人の女性と小さな女の子が私の方に向かってくるのが見えました。女性の歩みがだんだんのろくなり、少女は逃げようとしました。"私はソ連の人間だが字宙から来たのだ"と告げました」──

                       まるで夢を見ているような手記である。帰還後の記者会見でガガーリンが述べた「地球は青かった」という言葉とともに、人類は万人の宇宙旅行の実現に向けて、美しい一歩を踏みだしたのである。

                      2009年6月16日 読売新聞
                      http://www.yomiuri.co.jp/space/jaxa/20090616-OYT8T00378.htm

                      by jl-jl
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